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网走监狱博物馆传奇(博物館網走監獄の伝奇)

网走监狱博物馆传奇(博物館網走監獄の伝奇)

120年前,日本发生了什么?为什么一群群红衣人逐渐出现在北海道的原始森林?他们在干什么?他们和日本近代史、网走监狱博物馆存在什么关联?走进网走监狱博物馆,也就走进了这段历史……

120年前の日本では何が起こっていたのか。なぜ赤い服を着た人々が北海道の原始森林に姿を見せ始めたか。彼らと日本の近代史、博物館網走監獄とはどんなつながりがあるのか。博物館網走監獄に一歩足を踏み入れれば、そんな歴史の謎に迫ることができます……

(一)歴史と博物館網走監獄(历史和网走监狱博物)

(一)歴史と博物館網走監獄(历史和网走监狱博物)

(一)历史和网走监狱博物馆
从江户向明治转变时期,是日本近代史上风云激荡的年代,网走监狱博物馆的诞生,和这段历史息息相关。

(一)歴史と博物館網走監獄
江戸から明治に転換するのは、日本近代史が激動した時期です。これが、網走監獄の誕生とに深いつながりがあります。

至明治元年(1868年),统治日本260余年的德川幕府宣告终结,日本建立起以天皇为中心的明治政府。因前德川幕府实行闭关锁国政策,使日本远远落后于时代,为了摧毁旧的统治系统、制度、推进现代化进程,新政府开始建立起全新的中央集权政治体制。那时,明治天皇年仅16岁,对于运筹帷幄、管理国家来说,还显得过于年轻、缺乏经验。所以,实际行使权力的是(摧毁江户幕府的功臣、薩摩藩的)西乡隆盛、长州藩的大久保利等人。
首先,新政府发出终结武士政治、恢复王权的大号令。对于新政府而言,以德川家为中心的幕府残余势力是其最大威胁。正是这个原因,在1868年~1869年间,日本发生了旧幕府家臣与新政府之间的戊辰战争。虽然新政府实现无血开城、顺利入主江户、但战争远远没有了结,很多旧幕府军不愿归顺新政府,为了夺回统治权,那些幕府残余势力从江户撤退,最终在会津藩和新政府军发生激战,(其中白虎队悲剧最为有名)。随着战争延展,旧幕府势力逐渐向(被称为虾夷地的)北海道转移,困守函館、五稜郭城后,新选领头人土方岁三、榎本武扬就地宣告成立虾夷共和国。不过,该新政权仅仅维持四个月被宣告破城。至此,戊辰战争正式结束、明治政府开始正常运行。
明治政府提出富国强兵的口号,拼命地培养产业、增强兵力、充实国力,以追赶发达国家。为了实现这个目标、政府决定开发北海道资源。进入19世纪的虾夷岛(北海道)周边、布满了来自英国、美国、俄国的调查船。对于邻国俄国而言,西伯利亚、桦太正成为其殖民地,虾夷岛(北海道)似乎也将变成其殖民地。
到明治2年,也就是1869年,明治政府将虾夷地改称为北海道,并设立北海道开拓使、以推进开拓进程。
这时,明治政府委任岩仓具视为代表、率领大使节团赴欧美学习先进文化。该使团先后到访美国、英国、德国、俄罗斯等国家。在感叹这些国家产业兴盛之余、决定发展各种经济产业。这些改革新势力和保守的西乡隆盛等人发生了隔阂。
当时,日本和朝鲜陷入断交状态。日本多次呼吁恢复两国邦交,遭到对方拒绝后,板垣退助非常愤怒、决定动用武力迫使朝鲜开国。但该建议遭到赴欧美使团的反对、认为这样的行为不符合推进文明进程的宗旨。于是,西乡隆盛、板垣退助离开明治政府。
这时相继发生了佐贺、新风连之乱等。到明治10年、还发生了席卷整个九州的西南战争。八个月后,以叛乱者西乡隆盛自杀而告终。从征韩论到西南战争、内乱频发、作奸犯科者层出不穷。到明治18年达到高峰:8万9千人,全国监狱呈爆棚状态,政府将目光转向了正在进行开拓工程、苦于人手不足的的北海道,就此撩开了网走监狱的历史大幕……

1868年、明治元年約260年余り続いた徳川幕府が終わりを告げて、天皇を中心とする明治政府が誕生しました。明治政府は、徳川幕府の鎖国政策によって世界の変化から取り残された日本の近代化を推し進めるため、すなわち古いシステムや制度を壊して新しい政治を行う中央集権化を始めました。しかし、明治天皇はこの時、16歳という年齢で、新しい政治で手腕を発揮するには幼すぎたので実際には江戸幕府を倒すために功績があった薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の大久保利通らが中心となって政治を行いました。
まず真っ先に行ったことは、武士による政治は終わったと宣言する王政復古の大号令でした。新政府にとって、徳川家を中心とする幕府の生き残りは大きな脅威でした。 この結果、旧幕府の家臣たちと新政府は戦うことになり、日本を二つに分けた内乱戊辰戦争(1868年~1869年)がおきました。この戦いにより、江戸城の無血開城がなされ、新政府は江戸城に入城しました。もちろん旧幕府軍の中には納得しない人たちもいました。彼らは江戸をあとにして会津に向かいました。会津藩と新政府軍の戦いでは白虎隊の悲劇が有名です。更にこの戦いは当時蝦夷地と呼ばれていた北海道に移ってきました。戦いの舞台は函館、五稜郭という城に新選組の副長だった土方歳三や榎本武揚らが立てこもり、彼らは蝦夷共和国という政権を樹立しましたが4ケ月で敗北、城を明け渡し戊辰戦争が終わりました。
これにより、明治政府による本格的な政治がはじまったのです。
明治政府は富国強兵というスローガンを掲げ、諸外国に追いつき、追い越すために産業を育成し、国を豊かにさせ兵力を強くし国力を充実させようと必死でした。その目標達成の為には、蝦夷が島の手つかずの資源が必要だったのです。しかし19世紀に入って蝦夷が島周辺には、イギリスやアメリカ、ロシアの艦船がやってきて調査を行うようになりました。ロシアは、シベリアやカムチャッカ、サハリンを植民地とし、蝦夷が島をもロシアの植民地にしそうな勢いでした。 そこで、1869年明治2年明治政府は蝦夷地を北海道と名づけ、北海道開拓使という役所を置いて開拓を進めることにしました。
一方で明治政府は欧米の進んだ文化を学んでみようと大使節団を派遣することにしました。このリーダーに選ばれたのが岩倉具視です。 使節団はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアを2年間かけて訪問し諸外国の進んだ文化に感嘆し殖産興業への意を固めたのでした。このことが、留守を預かっていた西郷、板垣らとの考え方に溝を深めることになりました。
この頃、日本と朝鮮は国交断絶状態にあり、国交回復を何度か朝鮮に呼びかけましたが、拒絶されたことに憤慨した板垣退助は、武力で開国させようとしましたが、この考えに意を反したのが、使節団として派遣された人たちでした。 先進国の進んだ文明を見せつけられた彼らは武力による開国を反対しました。 使節団と留守舞台の考えの相違により、西郷と板垣は明治政府を去ることになったのです。ここから板垣退助は国会開設を政府に要求する自由民権運動を開始します。西郷は地元鹿児島に戻り私学学校を作り若者の教育に努めました。
この時、同じように明治政府を去った江藤新平らが佐賀の乱(1874年明治7年)を起こし、新風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が相次ぎました。そしてとうとう1877年明治10年西郷が立つ日がやってきました。これが西南戦争です。ほぼ九州全域を舞台とした8ケ月に及ぶ内戦は西郷の自害で幕を閉じました。征韓論に端を発した西南戦争は国事犯を生み、明治10年代から増え続けた囚人は明治18年には8万9千人と過去最高の収容者数となり、全国的に監獄は過剰拘禁となりました。政府はこの状態を解決するため、北海道に白羽の矢が立ったのです。