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考古专家米村喜男卫和moyoro贝冢(考古家の米村喜男衛とモヨロ貝塚)

考古专家米村喜男卫和moyoro贝冢(考古家の米村喜男衛とモヨロ貝塚)1

身兼理发师的考古学家
  在网走市,有条网走河,日夜不停地流淌着,最终汇入浩瀚的鄂霍次克海,就在其交汇处,有一个充满传奇的地方---moyoro贝冢。该贝冢本身就是个传奇,1200年前,从北方迁来一批特异的民族,然后这个民族又神秘消失,为何消失,去向何处,至今还是个谜。发现这个谜的不是资深的考古学家,而是一位年仅20岁的理发师,他叫米村喜男卫,他的发现酿就一个考古人的感人传奇,为北海道古代史增添了新的一页,也为他本人赢得“北海道的(德国著名考古学家)雪莱曼”的美名。

米村喜男衛とモヨロ貝塚
網走川がオホーツク海に注ぐ河口の森の中に眠っていたオホーツク文化の遺跡モヨロ貝塚を発見したのは、学者ではなく、一人の若い理髪職人「米村喜男衛」によって呼び覚まされました。これが北海道の古代史に新たなページを加えることになるのです。それは、北方民族の生活スタイルを継承しており、北東アジアの影響を受けているオホーツク文化だった。

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1892年,在日本青森县男津轻部的一户农家里,喜添一男婴,他就是后来名扬日本考古界的米村喜男卫。
米村喜男衛さんは1892年、青森県南津軽郡に農家の長男として生まれました。

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8岁之前,米村喜男卫和别的孩子一样,无忧无虑地成长着,而8岁时发生的一件事决定了他一生的走向:他在山后的田地里玩耍时,忽然捡到了一块碎石片,因其形状不同于一般石头,他拿着它请教别人得知,这可不是一块普通的石头,而是远古时期人们使用的石器工具。

1900年米村さんにとって生涯を決める大きな出来ことに遭遇。裏山の畑で偶然に石のかけらを拾ったのです、それが大昔の人々の道具で石器というものであることを教えられました。

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这个意外发现,让米村喜男卫又惊又喜,一万多年前,人们曾握着他手里的这块石头从事生产、生活活动呢。这是多么神奇的事啊,这块石头是否在启示着自己做些什么呢?在岁月的长年冲洗下,他的想法越来越明朗,也越来越觉得不能再这样等下去,该行动起来、围绕这块石头追逐自己的梦想,18岁时,他决定进京求学、深造。这时,他遇到了一位影响他一生的重要的人物:东京大学人类学专家鸟居龙藏。鸟居先生的教授下,米村在东京度过了短暂而充实的2年时间,1912年5月,年仅20岁的米村从上野车站踏上来网走的旅程。

月日がたっても考古学に対する夢は膨らむばかり、、、長年の夢であった上京を決心。そして、生涯を通じて最も大きな影響受けた人物、東京大学人類学教室の鳥居龍蔵氏と出会います。短いながらも充実した東京での2年間を過ごし、1912年5月20歳の米村さんは、上野駅のホームに立ち網走へ。

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那时的网走还是没有电灯、电话的极北小镇。就在这种简陋的条件下,米村喜男卫和moyoro贝冢戏剧性相会。一天,当他顺着网走河信步闲走时,在河岸断面层里发现和绳文系土器花纹完全不同的土器、很多竖穴式居住遗迹,这一发现让米村喜男卫惊喜万分,从而揭开北海道古代史所没有记载的神秘的一页。因为该贝冢是在最寄村发现的,因此米村喜男卫将其命名为“moyoro(取自日语‘最寄’的读音)贝冢”。

米村さんがモヨロ貝塚と出会った大正初期の網走は電気は電話もない新興の北限の街でした。網走川沿いの急な断面に露出した貝塚層の中に今まで見てきた縄文系の土器、とは全く違う文様の土器が混じり、いくつもの竪穴式住居跡を発見。米村さんは最寄村で発見されたことから。この貝塚を『モヨロ貝塚』と名付けました。正にオホーツク文化人と劇的な出会いました。

 2个月后,米村喜男卫在网走街租了间小房子、经营起一所理发店,因为人们知道他是来自东京的理发师,所以非常受欢迎,理发店开展得很顺利。就在这时,米村正式对moyoro贝冢进行研究。清晨,在理发工作开始前,他悄悄到moyoro贝冢遗迹处展开调查;白天,他握起理发推子做起理发师的工作;下班后,他连夜对收集的资料进行整理、分类。他如此经年累月、坚持不懈。
因为收集的资料越来越多,他于理发店二楼阁楼处设立的“乡土室”显得越来越狭窄。他的研究精神感动了很多人,住友总社决定向他捐赠。这是,米村想,是不是可以以多年收集的moyoro贝冢资料、阿伊努资料为中心建立一个博物馆呢。在住友总社的支持下,他的建馆梦想得以实现:1936年,迎来了北见博物馆开馆日。该馆为西洋式建筑,正前方的红色原木结构为其标志性特征。设计者是被称为北海道近代建筑先驱者的田上义也,这是北海道最先出现的博物馆。
研究证明,在距今1200年前,从北方迁来一批特异的北民族,后来这个民族又神秘消失,至于其为何消失,至今还是个谜。
现在,moyoro贝冢保存完好。在其附近建起了moyoro贝冢馆,并力所能及地复原出当时人们居住的样子、以供游人参观。

 モヨロ貝塚発見から2カ月後、街の空き家を借り、小さいながらも米村理髪店を開店。東京から来た床屋さんということで仕事は順調。
 モヨロ貝塚の調査も本格的に進められていきました。仕事前の早朝に遺跡へ出かけ調査。昼にはバリカンを持ち床屋さん。夜は集めた資料の整理、分類という日々が続きました。
 理髪店の2階(屋根裏)を郷土室として資料を納めていましたが手狭となります。そのため、住友本社から寄付を仰ぎ米村さんが長年に渡り収集したモヨロ貝塚の出土資料やアイヌ文化資料などを中心に博物館構想は練られ、1936年北見博物館の開館の日を迎えます。設計者は北海道近代建築のバイオニアとも呼ばれる田上義也氏で正面中央の赤いドームが特徴的な洋風建築で、博物館として建てられた北海道最初のものです。
 研究によると、1200年前に独特の文化を持つ民族が北方から最寄に移り住んだということです。その民族はそれから姿を消しましたが、民族自体が何らかの理由で消滅してしまったのか、それとも、どこかに移住して行ったのかについては、今でも多くの謎が残されています。(参考資料は「網走歴史道」です。)

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