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文学
多くの文学者、作家が網走を訪れています


網走の魅力

能取岬と戸川幸夫

「オホーツク老人」(1960年 新潮社)
「漂流」
(1960年) 

戸川幸夫

網走と最も関わりの深かった作家に、戸川幸夫が挙げられます。彼は「オホーツク老人」執筆のために網走を訪れた折、オホーツクの自然に魅力を感じ、以来年に数度は足を運んでいたと言います。

戸川幸夫「私が最初に網走を訪ねたのは三十四年の九月だった。知床半島のルポをするためだったが、当時は知床半島のことは全く不明だったので、網走に行けば何とか状況が判るだろうとおおざっぱな推量で訪ねたのだが、その網走市の観光課の人でさえ知床半島に行ったことがないというありさまで、谷村観光係長にお願いして知床半島に行ったことのある市民四人をやっと探して貰い、事情を聞いた次第だった。その時は知床半島のウトロまで行くのに営林署のジープに便乗し、営林署の宿舎に泊めてもらい、鮭の集荷船に乗って突端の番屋に行き、そこから先は番屋づたいに転々と移動して半島を旅した」
(「氷海の嵐」 凍原社『北の話』)

知床は今や道東観光の代名詞なので、想像がつき難いかもしれませんが、当時は観光する人もほとんどなく、交通手段も十分でなかった知床へ行くには、網走が拠点となっていました。そのため網走の人々の協力は、戸川幸夫にとって大きな役割を果たすこととなりました。 こうして書き上げられた「オホーツク老人」は、その後森繁久弥主演の「地の涯に生きるもの」として映画化され、このとき生まれた歌「知床旅情」は空前の大ヒットとなり、知床ブームが巻き起こりました。
彼がこの作品を書かなければ、今のように世間に知床が知られることはなかったとも言えます。

戸川幸夫は網走の魅力について、このように語っています。

海辺の番屋と船「オホーツクには、なんとも言えないもの悲しさがある。つまり、日本人の体質にぴったり合う詩情があるんです。日本中のいろんなところの海に行っていますが、たとえば日本海へ行くと荒々しさはあるけれども、それほど詩情がないんです。沖縄の海もすごく美しいし、明るいけれども、これも詩情がない」
(「網走とオホーツクの魅力」〔インタビュー記事〕
1986年 網走市勢要覧『オホーツク物語』)

「オホーツク老人」は、知床の番屋で孤独に生きる一人の老人の物語です。厳しい自然にさらされながらも強く生きるその姿は、オホーツクそのもの。彼の語るもの悲しさや詩情が、この作品には溢れています。当時ブームが起こったのも、その風景に日本人の心に訴えかけるものがあったからでしょう。

網走市要覧、観光パンフレット「大ていの観光地は山なら山、海なら海と一種類の美しさに限られているが、網走が持つ自然美には牧歌調の平原あり眩くような断崖あり原生林あり、山岳あり、湖水河川あり、大洋ありと、実に多種多様の風光が訪れる人を喜ばせる〔中略〕こんなところは日本中さがしてもめったにない」
(「美しき網走」 昭和30年代発行網走市観光パンフレットへの寄稿より)

また、取材や映画撮影の協力、地元との交流の中で、人の純真さ・強さといったものにも大きな魅力を感じていた戸川幸夫は、網走に多くの友人を得て、後々も長く交流していたといいます。

友人たちとの交流「(知床取材の)おかげで、網走にはたくさんの友人ができました。私は行った先で会った人は一度つきあったらいつまでもつきあうほうなんです。それに、網走が好きだし、オホーツクが好きだし、知床が好きだからということで、それから、ちょいちょい来るようになりました」
(「美しき網走」 昭和30年代発行網走市観光パンフレットへの寄稿より)

 

様々な要素をあわせもつ自然景観と、そこに流れる詩情。そして人の温かさ‥それが網走の魅力なのです。

 

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